后宇多天皇

后宇多天皇

后宇多天皇(日語:後宇多天皇/ごうだてんのう Go-uda Tennō;1267年12月17日-1324年7月16日),第91代日本天皇,1274年3月6日 - 1287年11月27日在位。諱世仁(日語:世仁/よひと Yohito)。

龜山天皇的第二皇子,母親是京極院藤原佶子。文永十一年(1274年),龜山天皇讓位給8歲的世仁親王,是為後宇多天皇。在位期間,蒙古(元朝)軍侵略日本,是為文永·弘安之役。

后深草上皇認為應由其子嗣繼承皇位,由鎌倉幕府調停斡旋下,弘安十年(1287年)后宇多天皇讓位給后深草上皇之第二皇子熙仁親王,是為伏見天皇,建立持明院統。及后正安三年(1301年),后宇多天皇之第一皇子邦治親王繼承后伏見天皇即位,是為後二條天皇、建立龜山天皇子嗣的大覺寺統。兩統其後對立,分裂成為南北朝並立時代。后伏見天皇在位期間,后宇多上皇執行院政達八年之久。其後在文保二年(1318年)持明院統的花園天皇讓位給后宇多上皇之第二皇子尊治親王,是為後醍醐天皇,后宇多上皇再次執行院政。元亨元年(1321年)院政停止,后宇多上皇從此隱居,而後醍醐天皇親政。元亨四年(1324年),后宇多上皇駕崩,終年56歲。

后宇多八歲即位,由其父龜山上皇執掌院政,治世期間蒙古襲來。在位十四年以後讓位。他在位期間歷經了“文永之役”和“弘安之役”。

人物生平


后宇多天皇陵
后宇多天皇陵
1275年,幕府也加入到皇室繼承的糾紛中來,決定立后深草上皇的兒子熙仁皇子為後宇多天皇的太子。把蒙古人趕走之後,皇位繼承的矛盾再次突顯出來。1287年,幕府聽說龜山上皇將對幕府圖謀不軌,便強迫后宇多天皇讓位給熙仁皇子,就是伏見天皇。此後15年間,后宇多上皇深居簡出,潛心研究學問,直到自己的兒子即位為後二條天皇后,他才復出主持院廳。因后宇多上皇的政治才能和突出政績,被後人譽為“英主”。1307年,因寵妃去世,他才看破紅塵,出家為法皇,出家以後法號金剛性。到了1318年,他的次子后醍醐天皇即位,他覺得紅塵世界畢竟比佛門舒服一些,重新開始輔政生涯。3年後,隱居大覺寺,專心研究密宗,直到去世。後來,人們稱龜山的一支為大覺寺系統。(右圖為後宇多天皇的御陵——蓮華峯寺陵,及陵印)

家族


• 父:龜山天皇
• 母:藤原佶子
• 皇后:姈子內親王(游義門院)
• 子女:
• 邦治親王(后二條天皇)
• 奘子內親王(達智門院)
• 尊治親王(后醍醐天皇)
• 性圓法親王 承覺法親王
• 性勝法親王
• 禖子內親王(崇明門院)
• 愉子內親王
時代鎌倉時代
年號
文永
建治
弘安
首都京都
皇居京都御所
世仁
陵墓蓮華峯寺陵
父親龜山天皇
母親藤原佶子
皇后姈子內親王(游義門院)

日文介紹


后宇多天皇
后宇多天皇
後嵯峨上皇の意志により文永五年(1268年)立太子、同十一年(1274年)亡き上皇の意向を継いで亀山天皇から譲位を受けて8歳で即位。亀山上皇による院政が行われた。
治世中には、元・高麗軍による元寇、いわゆる文永・弘安の両役が発生した。
弘安十年(1287年)、後深草上皇が、自分の血統(持明院統)ではなく、弟亀山上皇の血統(大覚寺統)が天皇になったのを不満に思っていたので、幕府の斡旋により、後深草上皇の皇子・伏見天皇に譲位した。以後、持明院統と大覚寺統による皇位の爭奪に対し、調停策として出された幕府の両統迭立案に基づく皇統の分裂が続く。
長子である後二條天皇(94代)の治世、正安三年(1301年)から徳治三年(1308年)まで院政を敷き、持明院統の花園天皇を挾んで、もう一人の皇子後醍醐天皇(96代)が文保二年(1318年)に即位すると再び院政を開始。元亨元年(1321年)、院政を停止し隠居。以後、後醍醐の親政が始まる。正中元年(1324年)、崩御。
晩年は後二條天皇の長子(自らの嫡孫)である皇太子邦良親王の即位によって大覚寺統が早期に一本化する事を望んでいたと言われ、中継ぎに甘んじない後醍醐天皇との父子仲は次第に疎遠になっていき、その結果院政停止・天皇親政に至ったと推測されているが、院政停止は後宇多院自身の希望ともいわれ、なお考證を要する。
諡號・追號・異名
遺詔によって宇多天皇の追號に後の字を冠した後宇多院を奉った。嵯峨天皇の離宮であった大覚寺を再興しそこで院政を執ったため、大覚寺殿と稱され、のちには亀山・後宇多の皇統を指す語にもなった。ほかに御所として使用された萬里小路殿や常磐井殿に基づく異稱もある。