千葉周作
千葉周作
千葉周作 (ちば しゅうさく)1794〜1855 (寬政6年〜安政2年)北辰一刀流創始者。日本幕末時期江戶三大道場之一的玄武道場的開創者,以技傳劍的武學導師。
幕末時期,北辰一刀流培養出的名劍士數不勝數,這一著名門派的開創者就是千葉周作。千葉周作,字成政,號環龍。出生於陸奧國(宮城縣)栗原郡花山村,祖父千葉吉之丞常成原為北辰夢想流的創始者,父親千葉幸右衛門卻以行醫為業,愛好劍術更甚於醫道,便將自己無法實現的劍道導師之夢寄托在兒子們身上。周作的弟弟千葉定吉也是著名的劍士,被稱為“小千葉”或“桶町千葉”;其兒女輩中也出了很多劍技優秀的高手。千葉一族可說是幕末最負盛名的劍術之家。
周作十五歲時,隨父移居江戶近郊的松戶。翌年,入小野派一刀流的淺利又七郎義信門下為徒。淺利又七郎非常看重才華橫溢的周作,將其視為理想繼承人的不二人選,寄予厚望。
二十三歲時,周作獲得了免許皆傳的認可后,聽從師父的勸告,去中西道場修行。中西道場主中西忠兵衛子正曾經是淺利又七郎義信的師父,在他的直接指點下,周作獲益非淺。三年之後,便成功地贏得了中西道場免許皆傳的資格。
當時,中西道場有三位著名的劍客:高柳又四郎、白井亨、寺田宗有。這三人並稱為“一刀流三羽鳥”,據說只要有他們在,無論什麼人來中西道場挑戰,都只有敗陣而回的份。其中,尤以高柳又四郎的“無聲決勝”最為有名。“無聲決勝”的意思是,開始對戰後,在二人手中的竹刀互相打擊之前,就已分出勝負。對方不要說取勝,根本連擊中又四郎竹刀的機會都沒有,可見其劍技是絕對的迅疾和強悍。
高柳又四郎劍技高超,但在道場里沒什麼人緣,因為他只顧自己磨鍊,從不關心徒弟們的成長。即使與新手對陣,他也毫不留情,每次都以他最得意的“無聲決勝”將對手狠狠地打倒。有些剛入門的新人受不了這種打擊,就放棄了學劍的打算。不過再怎麼說,又四郎的實力在中西門下也是首屈一指的。所以,在中西道場為祝賀千葉周作滿師而舉行的比武中,又四郎被選為周作的對手。二人上場,面對面互施一禮后,同時拉開了架式。周作擬作大上段攻擊,而又四郎則意取中段。二人擺出起勢之後,都凝神靜氣,佇立原地,好似雕像般紋絲不動。又四郎擅長在對手作大幅斬擊時,抓住動作中的破綻一擊制勝;當然,周作對此心知肚明。二人都目不轉睛地盯著對方,誰也不敢輕舉妄動。場內鴉雀無聲,緊張的氣氛一觸即發。終於,又四郎踏前一步,試圖先發制人;周作也立即發力,間不容髮之際,只聽得周作一腳踏下,隨後是“啪”的一記,二人竹刀相擊的聲音清脆地炸裂開來,響徹整個道場;周作成功地打中了又四郎的面門,而又四郎的竹刀也同時擊中了周作的護手。比試結果,二人平分秋色。然而,又四郎引以為傲的“無聲決勝”的神話,被千葉周作完全打破了。在這場比武中,周作凝聚真氣蹬地而起時,道場的長條地板“咯吱”一聲,被踩斷了。這可是厚達一寸二分(約3.6厘米)的檜木板啊。道場主中西特意把斷裂的地板鋸了下來,作為紀念品掛在道場里,以此為榜樣,激勵門徒們努力練劍。
千葉周作在中西道場的修行圓滿結束,於是回到淺利又七郎處,遵從師父的期望,成為淺利家的養子和正式繼承人,並與師父的侄女結了婚。可是,此時師徒之間卻產生了分歧。淺利又七郎一心保持一刀流的古風,可周作卻想引入他流的劍招,開創新形式的劍法。通過與各流派的人比武切磋,周作充分了解了各派的優缺點,並認識到傳統的一刀流戰法中有不少應該改良的地方。周作主張一刀流的構型,宜常持下段或星眼,如此即不佔攻擊的先機,但卻可隨著敵人的動向,作三段四段自由自在地去應對,而欲達此境域,則增加實戰的經驗最為必要,在這一點上,二人的意見完全無法統一,終於漸漸走向互相對立的兩個極端。到了這個地步,再也沒有商量的餘地了。二人只好斷絕了父子關係,周作將一刀流的傳承證書交還給淺利又七郎,攜家小離開了淺利家。這樣一來,指責周作“忘恩負義”的非難之聲四起,使他很難繼續在江戶立足。於是,他帶著門下弟子踏上了諸國武者修行之旅。專事研究隨敵人之氣勢而變化構型的劍法。在此過程中,周作擊敗了各地高手,展露了出神入化的高超劍技。這一次迫不得已的旅行反而成了使他名揚天下的契機。當時,周作還只有二十七歲。一八二三年(文政五年),周作回到江戶,在日本橋品川町創立了自己的道場,取名為玄武館,並將自己在一刀流的基礎上開創的流派正式命名為“北辰一刀流”。三年後,玄武館遷至神田玉池。新建道場的規模與著名的柳生道場相當,還興建了足以讓五十人安居的二層宿舍,收留來自各藩的門徒。與隔壁的東條一堂塾合併之後,以町設道場而言,玄武館已經堂堂成為江戶第一大道場。與鏡心明智流桃井春藏的士學館、神道無念流齋藤彌九郎創建的練兵館合稱“江戶三大道場”。
周作的名氣如日中天,想招攬他入麾的大名當然不少,可無意從仕的周作都一一謝絕了。唯有水戶藩主齊昭幾次三番懇切相邀,無法推辭。於是周作答應擔任水戶藩校的教練,定時去該校的弘道館作劍術指導。
北辰一刀流的特色,在於先進的教學方法。千葉周作改良了竹劍與護具,制定對戰規則,對現代日本劍道影響極大,周作在文章方面也很有心得,他以深入淺出的文字詳細地講解劍術精要,經他點撥,那些看似高深抽象的心得體會也變得生動易懂。千葉周作講解劍道的進攻方法,『殺劍、殺技、殺氣』為三殺,將對方竹刀的刀尾三寸處抑壓於右方、左方、或左右撥開,使刀光始終無法保持中間,稱為殺劍。對方劍術超群難以應付,猛攻其招式弱點,因每一招必有其弱面,其絕招便無法施展,此為殺技。如對方鬥志旺盛,勇猛不可當,此時連續沖體,或猛攻其『起端手』猛挫對方發招之勇氣,稱為殺氣。因此,千葉門下湧現了眾多精英人才。海保帆平、井上八郎、森要藏、冢田孔平等名劍士和斬殺幕府大老井伊直弼的有村治左衛門,清河八郎、山岡鐵舟、坂本龍馬等幕末著名活動家和新選組的山南敬助等都是從玄武館開始走上叱吒風雲之路的。
與周作相比,高柳又四郎門下則冷落蕭條。人說“劍如其人”,心胸狹隘的又四郎雖然曾和周作戰成平手,卻永遠不能象桃李滿天下的周作那樣,成為人們心目中真正的劍聖
剣客。陸奧國出身。北辰一刀流の祖。小野派一刀流を學び、北辰一刀流を創始、神田お玉ヶ池に道場を開く。精神主義を排し、合理的な教授法が人気を呼び、江戸に剣術ブームを起こした。後、水戸徳川家に剣術師範として仕えた。齋藤彌九郎・桃井春蔵とともに幕末三劍客と呼ばれる。
生地は定かでなく、現在の宮城県栗原市、宮城県大崎市、岩手県陸前高田市の3說がある。父は千葉忠左衛門成胤(獣醫師として浦山壽定とも)。曽祖父の道胤は相馬中村藩の剣術指南役であったが、御前試合で敗れたために役を辭して栗原郡へ移り、その子の吉之丞は北辰夢想流剣術を創始したと稱する。父・成胤もいったんは指南役に推挙されたが、辭して馬醫者になったという。その後、松戸(現千葉県松戸市)に移り、獣醫師を開業する。
同時に周作は親元を離れて(しばらく松戸に滯在したと言う說もある)中西派一刀流の流れを汲(く)む淺利義信に入門した。他にも淺利義信の師匠の中西子正などの指南を受けて腕を磨き、一時は淺利義信の婿となって後を継ぐことを期待されたが、組太刀の改変について淺利義信と意見が対立した。このため周作は妻(淺利の養女)を連れて獨立し、北辰一刀流を創始した。この際に伝書を焼き舍てたする伝承もあるが、中西子正から授かった伝書が現存しているため、これは誤りである。
その後、武蔵・上野などを周って他流試合を行い、伊香保で奉納額をあげることを企畫するほどの門弟數になったことで名を挙げた。
江戸に帰り、文政5年(1822年)秋、日本橋品川町に玄武館と言う道場を建て、後に神田お玉ヶ池に移転し、多數の門人を抱えて、江戸に剣術の一流を興した。この北辰一刀流は精神論に偏らず合理的な剣術であったため人気を得た。それまでの剣術は習得までの段階が8段階で費用も時間も多くにかかるのに対し、北辰一刀流の教え方は、主に竹刀を使用し段階を3段階と簡素化したことが特徴。
北辰一刀流剣術の人気は絕大なものとなり、「力の斎藤」(斎藤彌九郎)・「位の桃井」(桃井春蔵)とならんで、「技の千葉」と稱された。この三道場は江戸の剣客を三分し、幕末に至っても大きな影響力を誇った。
天保三年(1835年)に周作の盛名を聞きつけた水戸藩隠居の徳川齊昭の招きを受けて、剣術師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けた。
弟の定吉は京橋桶町に道場を持って桶町千葉と稱された。次男の栄次郎と三男の道三郎はそれぞれ水戸藩の馬廻役となっている。
千葉周作の門下から幕末の重要人物を多數輩出した。主な人物として浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助などが挙げられる。なお坂本龍馬は定吉に師事しており、直接の弟子ではない。