薩長同盟
薩長同盟
薩長同盟 (さっちょうどうめい) 是日本江戶幕府時代末期(幕末)的1866年(日本慶應二年),在薩摩藩與長州藩間締結的政治、軍事性同盟。
幕末時日本諸藩當中,以薩摩藩和長州藩最具政治上的影響力。雖然當時雙方都已經有武力討伐幕府(討幕)的打算,但因為西鄉隆盛、大久保利通主導下的薩摩,曾於1864年的禁門之變中將長州勢力逐出京都,並參與第一次長州征伐 (幕府與長州間的戰爭) ,故雙方對彼此都懷有敵意。
然而透過脫藩的原土佐藩士坂本龍馬與中岡慎太郎的斡旋,推動雙方巨頭進行會談。1866年陰曆1月21日(一說是22日)在京都薩摩藩邸,以坂本龍馬為中間人,薩摩方的西郷隆盛、小松帶刀與長州藩的木戸孝允締結內容六條的同盟之約,決定在打倒幕府(倒幕)上進行合作。這是一個考慮到是否對幕府開戰以及勝敗如何的極為現實的秘密軍事同盟。討幕運動由此而獲得很大進展。後來以薩長兩軍為骨幹的官軍擊敗幕府軍,幕府將大政奉還於天皇,開啟了日後明治維新的契機。
一、戦いと相成候時は、すぐさま二千餘の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し浪華へも一千程は差置き、京阪両所相固め候事(開戰後薩摩派二千餘兵上京與駐京之兵合流,穩住京都大阪要害之地)
一、戦、自然も我が勝利と相成り候気鋒相見え候とき、其節朝廷へ申上げきっと儘力の次第これあり候との事(若長州看似有勝算時,薩摩負責向朝廷進言)
一、萬一敗色に相成り候とも、一年や半年に決して潰滅致し候と申す事はこれなき事に付き其間には必ず儘力の次第これあり候との事(萬一看似要敗,長州一年半載也不至於毀滅,這之間薩摩也必須儘力)
一、是なりにて幕兵東帰せし時は、きっと朝廷へ申上げすぐさま冤罪は朝廷より御免に相成り候都合にきっと儘力との事(與幕府的戰爭結束后,薩摩一定要對朝廷訴說長州冤枉)
一、兵士をも上國の土、橋、會、桑も只今の如き次第にて、勿體なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗し、周旋儘力の道を相遮り候時は、終に決戦に及ぶほかこれなくとの事(若土佐、一橋、、會津、桑名等藩一定要慫恿朝廷、違背正義,再三進言也無用的話,只能決戰)
一、冤罪も御免の上は、雙方とも誠心を以て相合し、皇國の御為に砕身儘力仕り候事は申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より雙方皇國の御為め皇威相輝き、御回復に立ち至り候を目途に誠しを盡くして儘力して致すべくとの事なり(洗清冤屈后,雙方誠心實意為國家粉身碎骨儘力)