安政

安政

安政是日本的年號之一,指的是嘉永之後、萬延之前,1854年到1859年這段期間。此時期的天皇是孝明天皇,江戶幕府的將軍是德川家定德川家茂

改元簡介


嘉永七年十一月二十七日(西元1855年1月15日)因皇居失火、地震、黑船來航等災異而改元
安政七年三月十八日(西元1860年4月8日)改元萬延

出典簡介


出自《群書治要》里的“庶民 安政,然後君子安位矣”。

要事簡介


安政元年(1854年)佩里再度前來江戸灣,締造日美和親條約神奈川條約
安政2年(1855年)十月二日,發生安政大地震。
安政3年(1856年)刻本《掌中和漢年代記集成》45葉
安政5年(1858年)江戶幕府簽下日美修好通商條約等條約,後來又簽下安政五國條約。
大老井伊直弼開始展開安政大獄
安政6年久留島 通胤(くるしま みちたね、文政11年(1828年) - 安政6年11月30日(1859年12月23日))は、豊後國森藩の第11代藩主。第8代藩主・久留島通嘉の子。第9代藩主・久留島通容と第10代藩主・久留島通明の弟。子に通靖、通簡。官位は従五位下、信濃守。
嘉永5年(1852年)2月16日、兄で先代藩主の通明が病を理由に隠居したため、その後を継いだ。翌年、ペリーの來航で國內が混亂すると、通胤は幕府に対して諸藩の意見を広く求めるべき、と薦めている。しかしそれが原因で幕府に疎まれ始め、安政元年(1854年)に勤王的な藩士2名が脫藩すると、幕府から嫌疑をかけられることを恐れて老臣5名を辭任させ、幕府に謝罪するなど、開明的ではあったが小藩さながらの力の無さを露呈させてしまった。安政6年(1859年)11月、32歳で死去し、子の久留島通靖が後を継いだ。法號は叡泰院。
安政7年(1860年)三月三日,發生櫻田門外之變
逝世
安政4年(1857年)
阿部正弘(江戶幕府老中)
安政5年(1858年)
德川家定(江戸幕府將軍 享年34)
島津齊彬(薩摩藩主)