寬永通寶
日本歷史上的一種錢幣
寬永通寶是日本歷史上鑄量最大、鑄期最長、版別最多的一種錢幣,同時也是流入我國數量最多的外國錢幣之一。
它始鑄於日本第108代后水尾天皇寬永三年(1626年),從1636年開始大量鑄造。當時日本各地的錢爐均有鑄造,至明治初年還在使用,前後流通長達240餘年,后因德川幕府滅亡而廢止。寬永通寶錢在長期的中日貿易及交往中不斷流入我國,至今在我國各地均有發現。
古幣的由來
寬永通寶
我國明代施行鈔、銀、銅錢并行制度,但銅錢的鑄行嚴重不足,在明代的十七帝中,只有九代帝王鑄過幣(如明宣宗時自宣德年後的幾十年間沒鑄過幣)。於是便允許唐、宋舊銅錢入流,這便為民間的私鑄錢和流入中國的日本仿製錢的流通提供了條件。
日本於“寬永”二年(公元1625年,相當於明熹宗天啟五年)開始鑄造“寬永通寶”銅錢,歷經天明天皇至孝明天皇等十個皇朝,到1867年(相當於我國的清同冶六年)止,長達242年之久。所以,“寬永通寶”流通到萊蕪的時間,最早也應在明末清初之時。
日本的“寬永通寶”錢在中國民間流通了多年,直到清乾隆初年,才被官府知道,懷疑是私鑄錢,還另用“年號”,這無異於謀反。於是,乾隆皇帝諭令江、浙、閩各總督、巡撫窮治開爐造賣之人。幸虧江蘇巡撫庄有恭的幕僚見多識廣,道出來歷。於是,兩江總督尹繼善和江蘇巡撫庄有恭“會銜上疏”,講出來龍去脈,乾隆皇帝才又諭令嚴禁商船攜帶倭錢;民間使用的,官為收買。至此,事情才算了結,現存世極少,價格昂貴。
寬永通寶錢譜
《新元史》《食貨志七》《鈔法》中就有“……至元十四年.……日本遣商人賜金來易銅錢,許之”的記載。日本通過各種渠道從中國取得銅后,製造輕質銅錢,然後再輸出到中國換取重質銅錢,運回國熔化后再鑄造更多的輕質銅錢,再輸出到中國換取更多的銅錢或銅材,如此往複,財富便越聚越多。所以,利用本國所鑄銅錢對中國進行經濟掠奪,也是日本的一大創舉。而數百年後,當其發動侵華戰爭時,更是直接採用了取之於華、用之於華的“以戰養戰”的強盜政策。據《山東省志》第54卷所載:1899年(清光緒二十五年)時,由於銀賤銅貴,外國人乘機大量收購中國制錢,在破壞中國錢幣制度的同時,為本國積累戰略物資(銅材),日本人更是首當其衝。1915年以後,受第一次世界大戰影響,作為戰略物資的銅材價格暴漲,在中國國內毀錢取銅之風大盛。日本人為從中國購銅轉往他國牟利,無視中國法律,雇傭中國人在山東內地大肆收買、販運、熔毀制錢為銅塊后報關出口。僅1916和1917兩年間,每年就出口60餘萬擔,值關平銀900萬兩。當時,日本售給俄國的銅塊,有三分之一系中國制錢,直接導致了直、魯、豫三省制錢日減。
拓片
1935年,國內實行“法幣”制度,政府限期回收銅元,日本人又乘機大量收購。僅1936年12月,“膠海關”就從開往大連的日本輪船會寧丸上就查出銅元3汽車。
1938年到1945年期間,日偽政權在其佔領區內大肆搜刮銅製品,除利用商人到農村公開收買外,還按戶、按人頭強行徵收,民間積蓄的銅元、制錢,幾乎被搜刮凈盡。萊蕪地區也曾一度成為日本人的佔領區,自然也難免其禍。
背久字,鐵母錢
寬永通寶可能有清朝時民間私鑄的品種,一下所述為日本的寬永通寶。
材質は、銅製の他、鉄、精鉄、真鍮制のものがあった。貨幣価値は、裡面に波形が刻まれているものが4文(波浪紋寬永)、刻まれていないものが1文として通用した。當時96文を銭通しに通してまとめると100文として通用(短陌)し、通し100文と呼ばれていた。
略史
寛永通寶のうち、萬治2年(1659年)までに鋳造されたものを古寛永(こかんえい)と呼ぶ。その後しばらく鋳造されない期間があり、寛文8年(1668年)以降に鋳造されたものを新寛永(しんかんえい)と呼ぶ[1]。この古寛永と新寛永は、製法が異なり、銭文(貨幣に表された文字)の書體も顕かな違いがある。
元文4年(1739年)頃、鉄制1文銭が出現する。
明和5年(1768年)、真鍮制4文銭制定。
萬延元年(1860年)頃、鉄制4文銭が出現する。
銅または真鍮制の寛永通寶は、明治維新以後も貨幣としての効力が認められ続け、昭和28年(1953年)末まで、真鍮4文銭は2厘、銅貨1文銭は1厘硬貨として法的に通用していた(通貨として実際的に使用されたのは明治中期頃までと推定される)。
また、中國各地での大量の出土例や記録文獻などから、清代の中國でも寛永通寶が流通していたことが判っている。清に先立つ明では、銅銭使用を禁じ、紙幣に切り替えていたが、清代になってから銭貨の使用が復活した。しかし銭貨の流通量が少なかったため、銭貨需要に応えるべく、日本から寛永通寶が輸出された。
銅一文銭
二水永
寛永通寳(二水永背三)
寛永3年(1626年)に常陸水戸の富商・佐藤新助が、江戸幕府と水戸藩の許可を得て鋳造したのが始まりだが、この時はまだ、正式な官銭ではなかった。
このとき鋳造されたとされるものが、いわゆる二水永(にすいえい)と呼ばれる「永」字が「二」と「水」字を組み合わせたように見えるものであり、背(裡面)下部には「三」と鋳込まれ、鋳造年の「寛永三年」を意味するといわれる。
新助はやがて病死し鋳造は途絕えるが、九年後の寛永12年(1635年)に新助の息子、佐藤庄兵衛が後を継ぎ再び鋳銭を願い出、翌寛永13年(1636年)に鋳造を再開した。このときの鋳銭が背面に「十三」と鋳込まれたものであるとされる[2]。
古寛永
寛永通寳芝銭
寛永通寳坂本銭
寛永通寳水戸銭
寛永通寳高田銭(圖片詳見本詞條提供的參考資料日文維基)
寛永13年6月(1636年)、幕府が江戸橋場と近江坂本に銭座を設置。公鋳銭として寛永通寶の製造を開始。
主な鋳造所は幕府の江戸と近江坂本の銭座であった。しかし水戸藩、仙台藩、松本藩、三河吉田藩、高田藩、岡山藩、長州藩、岡藩等でも幕府の許可を得て銭座を設けて鋳造していた。
やがて銭が普及したことから寛永14年(1637年)に1貫文=銀24匁前後であった銭相場が前年までに1貫文=銀16匁まで下落したため、寛永17年8月(1640年)に一旦銭座を停止する。その後銀12匁まで下落していたが、承応から明暦年間にかけて再び銭相場が銀18匁前後まで高騰したため[3]、承応2年(1653年)、明暦2年(1656年)に銭座を設けて鋳銭を再開する。
これらの古寛永は大局的には以下のように分類される[4][5]。鋳銭地は古銭収集界で現存するものを當てはめたものであり、これらの內発掘などで銭籍が確定しているものは長門銭、水戸銭の一部、および松本銭である。
寛永13年(1636年)銭座設置
淺草銭/御蔵銭(あさくさせん/おくらせん):江戸淺草橋場の銭座で鋳造。
芝銭(しばせん):芝網縄手で鋳造。「通」字の之繞および「永」字などの點が草書體となった「草點」のものが多い。
坂本銭(さかもとせん):近江坂本で鋳造。「永」字が撥ねるものが多い。
寛永14年(1637年)銭座設置
水戸銭(みとせん):常陸水戸で鋳造。
仙台銭(せんだいせん):陸奧仙台で鋳造。
吉田銭(よしだせん):三河吉田で鋳造。
松本銭(まつもとせん):信濃松本で鋳造。「寳」が仰いでおり「斜寳」と呼ばれる。鋳銭を請負った今井家に書狀と未仕上げの枝銭が殘されており、(現在は松本市に寄贈され、松本市立博物館で展示されている。)その書體(「斜寶縮寶」)より、松本銭が確定した。
高田銭(たかだせん):越後高田で鋳造。
萩銭/長門銭(はぎせん/ながとせん):長門萩美彌郡赤村で鋳造。
岡山銭(おかやません):備前岡山で鋳造。
竹田銭(たけだせん):豊後竹田で鋳造。従來「斜寳」が充てられていたが、松本銭であることが確定した。
寛永16年(1639年)銭座設置
井之宮銭(いのみやせん):駿河井之宮で鋳造。井之宮銭とされていたものは発掘事実により岡山銭に変更される。「寛」字が小さく「縮寛」と呼ばれる。
承応2年(1653年)銭座設置
建仁寺銭(けんにんじせん):京都建仁寺で鋳造。建仁寺銭とされているものは長崎鋳造との說もあり。
明暦2年(1656年)銭座設置
沓谷銭(くつのやせん):駿河沓谷で鋳造。
鳥越銭(とりごえせん):淺草鳥越で鋳造。
古寛永の総鋳造高については詳しい記録が見當たらず不明であるが、鋳銭目標などから推定した數値では325萬貫文(32億5千萬枚)とされ、この內、鳥越銭が30萬貫文(3億枚)、沓谷銭は20萬貫文(2億枚)との記録もある[6]。
新寛永
寛永通寳亀戸銭(文銭)
幕藩體制の確立と共に全國に普及、創鋳から30年ほど経った寛文年間頃には、永楽通寶をはじめとする渡來銭をほぼ完全に駆逐し、貨幣の純國產化を実現した。寛文8年5月(1668年)、江戸亀戸で発行されたものは、京都・方広寺の大仏を鋳潰して鋳造したという噂が流布したこともあり、俗に「大仏銭」と呼ばれていた。また、裏に「文」の字があることから、文銭(ぶんせん)とも呼ばれていた。(表の「寛」の字とあわせて「寛文」となり、寛文年間の鋳造であることを表している。)
江戸亀戸に設立された銭座で、後藤縫殿助、茶屋四郎次郎ら呉服師六軒仲間が請負って大規模に鋳造が行われ、発行された銭は良質で均質なものとなった。
新井白石は寛文8年(1668年)から天和3年(1683年)までの鋳造高を197萬貫文(19億7千萬枚)[7]と推測しているが、『尾州茶屋家記録』では213萬8710貫文(21億3871萬枚)としている[8]。
新寛永
寛永通寳元祿期京都七條銭(荻原銭)
寛永通寳寶永期亀戸銭(四ツ寶銭)
寛永通寳正徳期亀戸銭(耳白銭)
寛永通寳高津銭(元字銭)(圖片詳見本詞條提供的參考資料日文維基)
品位の低下した元祿金銀の発行により銭相場が高騰し、元祿7年(1694年)に金一両=4800文前後であったものが元祿13年(1700年)には一両=3700文前後となった[3]。加えて経済発展により銭不足も目立ち始めたため、勘定奉行の荻原重秀は銅一文銭についても量目を減ずることとし、量目がこれまでの一匁(3.7グラム)程度から七〜八分(2.6〜3.0グラム)程度とされた。元祿11年(1698年)からは江戸亀戸で、元祿13年からは長崎屋忠七、菱屋五兵衛ら五人の糸割符仲間が請負って京都七條川原の銭座で鋳造を行った。このときの銭貨は俗稱荻原銭(おぎわらせん)と呼ばれる。荻原重秀はこのとき「貨幣は國家の造る所、瓦礫を以て之にかえるといえども行うべし。今鋳るところの銅は悪薄といえども、なお紙鈔に勝れり。之を行ひとぐべし。」と述べたとされる。
京都七條における元祿13年3月より寶永5年1月(1708年)までの鋳造高は1,736,684貫文(1,736,684,000枚)に上り、主に伊予立川銅山(別子銅山)の產銅が用いられた[9]。
寶永5年(1708年)、江戸亀戸で鋳造されたものも小型のもので、四ツ寶銀のように質が悪いという意味から四ツ寶銭(よつほうせん)と呼ばれる[2]。(ただし、従來荻原銭および四ツ寶銭とされてきたものは別の時代の鋳造であるとの說も浮上している。)
正徳4年(1714年)、品位を慶長のものへ復帰した正徳金銀の発行を踏まえ、一文銭も文銭と同様の良質なものに復帰することとなった。このとき再び呉服師六軒仲間が請け負って亀戸で鋳造したとされるものが丸屋銭(まるやせん)、あるいは耳白銭(みみしろせん)であり、50萬貫文(5億枚)が鋳造されたとされる。享保2年(1717年)には佐渡相川(背面に「佐」字)、享保11年(1726年)に江戸深川十萬坪、京都七條、享保13年(1728年)に大坂難波、石巻、また詳細は不明であるが享保年間に下総猿江で鋳造が行われている。
元文2年(1737年)には前年(1736年)の品位を低下させた元文金銀の発行により、銭相場が一両=2800文前後まで急騰したのを受け銭貨の増產が図られ、これらの銭貨の背面には鋳造地を示す文字が鋳込まれるようになる。元文元年には深川十萬坪、淀鳥羽橫大路、京都伏見、元文2年には江戸亀戸、江戸本所小梅(背面に「小」字)、下野日光、紀伊宇津、元文3年(1737年)には秋田銅山、元文4年(1738年)には深川平田新田、相模藤沢、相模吉田島、下野足尾(「足」字)、長崎一ノ瀬(「一」字)、明和4年(1767年)には肥前長崎(「長」字)、など各地に銭座が設置され、小型の銭貨が大量に発行された[1]。寛保元年(1741年)には摂津天王寺村の銀座役人徳倉長右衛門、平野屋六郎兵衛の請負った大坂高津銭座で元字銭(「元」字)が大規模に鋳造された。寛保2年(1742年)に勘定所は別子・立川両銅山の出銅の銅座分の五歩ほどずつを天王寺の銭座に渡すことを命じた。
江戸時代を通じた銅一文銭の総鋳造高は知る由も無いが、明治時代の大蔵省による流通高の調査では2,114,246,283枚としている[10]。しかしこの數値は鉄銭などとの引換に回収され安政年間に幕府庫に集積された數であり、既に述べたように鋳造高はこの程度にとどまるものではない。
鉄一文銭
寛永通寳鉄一文亀戸銭
元文4年(1738年)には銭相場の高値是正および材料の銅の供給不足などから、江戸深川十萬坪、仙台石巻、江戸本所押上などの銭座で鉄一文銭の鋳造が始まり、さらに明和2年(1765年)から金座監督の下、江戸亀戸、明和4年(1767年)から京都伏見、明和5年(1768年)からは仙台石巻(「千」字)、常陸太田(「久、久二」字)などの銭座で鉄一文銭が大量に鋳造され、銭相場は下落し安永7年(1778年)頃には一両=6000文前後を付けるに至った。
鉄銭は鍋銭(なべせん)とも呼ばれ製作も悪く不評であった。伏見鉄銭以降の鉄銭について「コレヨリ後出ル所ノ鉄銭皆其質悪シ、茶碗ノ欠ヲ入ルコトハ、寶永ノ大銭ヨリ初マリ、土ヲ入ル事ハ此銭ヨリ初ルトイヘリ[11]」、さらに「故ニカネノ音ハナシ」と揶揄されるほどであった。
天保6年(1835年)12月より天保通寳と同時に江戸深川で鋳造された鉄銭は洲崎銭と呼ばれたが、天保通寳が広く流通したため58,100貫271文(58,100,271枚)[6]と小額にとどまった。「寛」の字の「廾」部分が「十」となっている「十字寛」と呼ばれるものが洲崎銭であるとされる。
早在兩千多年前的漢半兩和五銖錢在日本多處出土即是明證。到唐代,兩國交往更加密切,互派使節,而且唐朝文化對日本影響很大。歷年來出土的唐代開元通寶錢數以萬計。而日本最早的方孔圓錢“和同開寶(王爾)”錢就是仿開元通寶錢而成,在我國也有發現。到了宋、明兩代,兩國經濟往來更加頻繁,中國錢幣繼續大量輸往日本。後來,日本仿鑄中國宋、明的年號錢,也用漢文,名稱一樣。這些錢幣以及其他的日本年號錢也大批流入我國。當然,寬永通寶是最為常見的。